原っぱ大学働きごこちインタビューvol 5 吉田耕作
抜群の発想と実行力 面白がりながら千葉キャンパスを底から支える存在
吉田耕作
Kosaku Yoshida
1992年茨城県土浦市に生まれ、その後も土浦市で育つ。
多くの友達に恵まれた小学校時代は、ニホンカモシカの個体調査が趣味である父と、年に一度山形朝日連峰に行く中で、「親以外の面白い大人」と数多く出会う。
高校時代は、美術系大学へ進学するために、ひたすら絵を描く日々を過ごす。
高校卒業直後に東日本大震災を経験する。当時住んでいた地元土浦でも隣家が半壊するなどの被害を受け、自身にとっての大きな転機となる。
東京造形大学入学後、大学の先生に誘われたことがきっかけで、石巻の震災ボランティアの活動に参加。大学でデザインを学びながら、石巻に定期的に通う生活を4年間続け、積極的にまちおこしへ関わりコミュニティー作りを学ぶ。
大学卒業後から現在はWebやグラフィックデザインの仕事をしながら地元土浦を中心にコミュニティー作りやイベントに関わり続けている。
大学在学中に原っぱ大学ガクチョーと出会い、「子ども原っぱ大学」の頃からイベントサポートスタッフとして関わる。現在は原っぱ大学千葉佐倉キャンパススタッフ。〝大人が面白がることを仕掛ける〟をモットーに、企画を生み出すだけでなく実際に手を動かし形にする、頼れる存在。
〈携わった主なイベント〉
土浦市 永井で文化祭
取手市 ニヤットフェス
土浦市 小林じんこ展
土浦市 祖父である吉田正雄の世界展
※取材撮影場所は自身が地元に根付く活動を始める大きなきっかけとなった古民家カフェ「城藤茶店」と子どもの頃からよく遊んでいた「亀城公園」
〝大きな転機〟大学に通いながら4年間続けた石巻のボランティア活動
2011年3月11日、高校を卒業した直後に東日本大震災を経験しました。僕の住んでいた土浦でも、隣の家が壊れるくらいで、自宅もすごく揺れました。その後大学に入学したのですが、先生に誘ってもらったことをきっかけに、6月に石巻のボランティア活動に参加したんです。被災地のために何かしたいという気持ちがあったものの何も出来ず、心がなんだかざわざわしていたので、知り合いも誰もいない環境でしたけど、迷いも無く向かいました。
ボランティア団体には全国から色んな人が来ていました。夜はみんなで雑魚寝をするんですね。「何十年間も髪の毛を切っていない裸足のヒッピー」と「どこかの会社の偉い社長さん」の間に挟まれて寝たりするんですよ。何も知らずに飛び込んだので最初はその環境にびっくりしました。一緒に過ごす人、隣で寝る人が毎日毎日変わるんです。夜ご飯はいつも変わらずカレーを食べるのですが、翌日にはその〝カレーを共に食べるメンバー〟ががらっと変わる。そんな日々を2週間も続けると、もう意味が分からない(笑)。 4年間の大学生活のうち、3ヶ月に1度のペースで2週間滞在。長いときは1ヶ月間現地で過ごしました。
震災後2年間は瓦礫の片付けなどの労働が多かったのですが、3年目になってくると、立て直ってきたこの町をどう盛り上げていこうか、という話になっていきました。まちおこしについて現地の人たちと話していた時に、「あ、そう言えば自分は美大生だった」と気がつきました(笑) 「できることがあれば手伝いますよ」と自然な気持ちで申し出て、勉強していたものを活かしたフライヤー作りやお祭りの手伝いやイベント撮影をしていました。「外の人も巻き込んでこの町を盛り上げよう」という雰囲気がとても楽しかったです。
現地の方々は被災されて大変な状況であるにも関わらず、とても明るく過ごされていました。特に、自分よりも若い高校生がとても前向きでしっかりしていて驚きました。1週間という期間で商店街を盛り上げるイベントをやった時には、高校生がプロジェクトを立ち上げて大人にしっかりとプレゼンもしていたんです。僕も見習わないと、と思いましたね。ボランティア活動3年目からは何も考えずに自由でいられるようになりました。それまでの自分だったらできなかったと思うんですけど、もうやるしかなかったので。風呂に入らないことにも慣れてしまいました!
目先のことだけでなく、これから10年先に何をしようか、もっとバージョンアップしよう、と石巻の大人達がとにかく楽しそうで、ここでの経験と大人達との出会いは僕にとって大きな転機でした。
学生の頃 自分の周りにはいつも〝面白い大人達〟がいた
石巻に通うためのお金を貯めたかったので、大学に通いながら学童保育やデザインの会社でアルバイトをしていました。子どもと遊ぶ仕事は嫌いではなかったですし、何より学童のスタッフさんが面白い人達でした。僕が関わるイベントごとの真ん中にはいつも美術があったので、スタッフさん達の企画に僕は美術担当で入っていました。自分が前に出るより、「リーダーの隣で形にすること」が当時から好きだったんです。
大学、バイト先、石巻。今思うと、僕の周りにはいつも〝面白い大人達〟がたくさんいました。学生時代に出会った中では、「カラーコーンをずっと追い続けている女の子」とか、「大学のクラブ用の部室を自宅にしてしまった方」や、「こたつを外に出して雪の中でみかん食べ始める人」もいました。このような人たちに囲まれていたら、もはや自分は普通には働けないと思いました。こういう面白い人たちと過ごす日々が学生の4年間だけで終わってしまうのは嫌だな・・・となんだか先のことが考えられなくなりました。
原っぱ大学との出会いは ガクチョーと面白い大人が踊り狂う1本の動画
大学3年生になって就職を考え始めた頃に、ある方の動画をfacebookで見かけまして。僕よりも年上の「大人」がティーティーウーという人物に扮して、なんだか大勢の大人と街の真ん中で踊り狂っているんですよ。どうやらそのティーティーウーさんは、「踊りながらアマゾン川を渡る」というよく分からないプロジェクトをホンキでやっていて。「大人になってもこういうことを全力でやって良いんだ!そのためにはどうしたら良いんだろう!!」と、ワクワクしました。彼の動画を見ていたら、当時まだ会社勤めだったガクチョーが一緒に踊っているのが目に入りました。それまでは、〝社会人になること=心が冷めてつまらない大人になっていくこと〟のように思い込んでいた僕は、ホンキで真面目に遊ぶという姿に感動してしまいました。面白い社会人っているんだ!と衝撃を受けましたね。「子ども」「面白いことをやっている大人」という気になっていたワードが一致したこともあり、とても心を惹かれたので、共通の知り合いに頼んでガクチョーに会わせてもらうことにしました。それが大学3年生の時です。
渋谷のカフェで待ち合わせをして、ガクチョーはおしゃれなスカーフを巻いて現れました。今、原っぱ大学で泥だらけで遊んでいる姿からは想像つかないですよね。(笑) その頃はまさにガクチョーがこれから原っぱ大学を事業化しよう、とワクワクされていた頃だったと思います。当時「子ども原っぱ大学」は毎月のようにイベントがあったので、美大の仲間も引き連れてお手伝いをさせてもらうこともありました。その手伝いは1年間続けましたが、楽しかったです。案の定、スタッフさん達は面白かったし、生き生きとしている大人を見ているのが本当に面白かった。僕はこういうイベントでは子どもにあまり目がいかなくて。というのも、子どもらは多分そのままで既に楽しいだろうな、という考えがあるので、それよりもいかに大人たちが楽しめる場を作れるかということを考えていました。心から遊びを楽しめる大人が増えたら良い社会になるだろうと思っています。
ゼロから始めるまちおこし活動 地元での暮らしを楽しくしたい
大学卒業後最初に勤めた会社では、つくばのまちづくりをコンセプトとしたWebサイトの運営をしていました。でも、それは学生の時まで思っていた「まちづくり」というものとはかけ離れていて戸惑いました。 石巻にいる頃のまちづくりイベントと言えば、商店街にみんなで集まって、顔を寄せ合って、話し合って準備を進めます。そしてイベント当日を迎えると、僕は広い会場中あちこちかけまわって写真を撮って、もう、ハァハァ言いながら息も切れてしまうくらいでしたけど、本当に楽しかったですね。自分の手足をリアルに使って、みんなで作り上げていく実感がありました。「デザイン」「まちづくり」「地元」というキーワードが揃っていたので入社しましたが、自分のやりたいことと仕事との違いに気が付いて、そこは半年で退職しました。
そのあとは、デザインの仕事ができる会社に転職して、仕事は仕事としてやり切って、空いた時間を充実させて自分のやりたいことをやろう!と思うようになりました。
地元に帰ってこようと思ったきっかけは、古民家カフェ「城藤茶店」ができたことです。ここでのお客さんとの出会いがとても楽しいです。出会った人と地元について色々と話して、じゃぁ何かやろうか、という流れがたくさん起こっています。
印象に残っている出会いは70歳のおじいさん。ある時友達になったんですよ。とても物腰が柔らかくて柔軟な方で、「こんなことをやりたいと考えているんですけど、どう思われますか?」と話すと、なんでも「良いですねやりましょう!」と言ってくれる方なんですね。そのおじいさんが、使っていない蔵を開放して人が集える場所にしたい、と言っていたので、そのお手伝いがしたくて毎週通って蔵を掃除することから始めて、「サロン椿庵」という名前でオープンするところまでのプロデュースをしました。とにかく掃除をすることから。築65年の公園ビルに仲間達と共にオープンさせた〝がばんクリエイティブルーム〟も、掃除をするところから関わっています。まちおこしは掃除からですね。(笑)
地域の方の声に応え、画家である祖父吉田正雄の個展を開催
僕の祖父は吉田正雄という画家でした。僕の中で画家というとずっと絵を描いていて人付き合いがあまり無いイメージがあったのですが、祖父は人との付き合いも上手で、絵を描いては、その絵を持ってコミュニティーの中に入っていき、どんどん人脈を増やしていくような日々を送っていました。賑やかな所が好きだったようです。描くだけで完結させずに、人に作品を観せることまで出来た人です。土浦の中でもまちおこしやコミュニティー作りをやっていたそうです。
祖父は20年前に癌で亡くなったのですが、祖父の友人達が「私達が生きている間にもう一度絵を観たい」という声を上げて下さったので、今年個展を開催しました。祖父が絵を描いてる姿は覚えていないのですが、個展を開催してみて初めて、自分は祖父からインスパイアされていたことに気がつきました。他人から言われるとそうだったんだな、と思えたんです。祖父の絵はとても大きいんですよ、天井くらいまであるサイズです。実家が看板屋だったので、これくらいのサイズは保管できるので残されていた本当に良かった。今ももちろんあります。
祖父は62歳で亡くなりました。
これは亡くなる前に描かれた絵です。「共存の合意」というタイトルがつけられています。
魚・猫・動物・爬虫類。みんなここにいますよね。種族を問わずみんなで助け合って生きていこうというメッセージがあり、一方で、自分は患った癌と仲良くしたい、癌と共に生きていく覚悟のようなものも込められていたようです。この絵は20年くらい前に描かれましたが、今まさに地球が抱えている問題にも通じるなと思います。オーストラリアで大山火事があった時に、〝自分が住む穴蔵に絶対に他の動物を入れない〟という習性を持つウォンバットが他の動物を穴蔵に入れたというニュースがあったんですけど、まさにこの絵のような光景ですよね。素敵な話だなと思いました。
千葉佐倉のフィールドは無茶ばかり!?絶対うまくいかないだろうということを敢えて仕掛ける
地元で色々な活動をしているうちに、妻と出会い、守谷や取手という地域にもよく遊びにいくようになったんですね。守谷で出会った仲間たちも、廃墟をみんなで掃除して場を開き、MFP(モリヤフレンドパーク)というコミュニティーを作っていて、面白い人達でした。(ここでも、掃除から!)妻もそのコミュニティーに関わりとても楽しく活動をしていました。※現在は活動していません。その仲間たちに原っぱ大学の話をしたら、「すごく良いね!おもしろそう!」と言われたので、当時柏にあった原っぱ大学に8人くらい引き連れて遊びに行ったんですよ。久しぶりにそこでガクチョーにお会いして、「1ヶ月に1回だけでもお手伝いにきてくれたら嬉しいよ!」と言われたのでその翌月から行くようになりました。
その頃ちょうど佐倉の森を新しい活動場所として開拓しようというタイミングでもあって、リーダーの祥子さんがとてもワクワクしていました。以前渋谷で会ったガクチョーもそうでしたけど、僕が出会う大人はワクワクにまみれているなぁ、と思います。
手伝い始めてからいろいろなイベントを仕掛けました。池に魚を泳がせてその魚をつかまえて焼いて食べたり、流しそうめんをしながら鹿威し(ししおとし)をやったり。この〝鹿威し流しそうめん〟を言い出したのは僕なんですけど、当日行かれなかったんです。行けないことは初めから決まっていたし、これは絶対うまくいかないだろう・・・と思っていたものの、むしろ、その「うまくいかなかった時」を想像したら面白いだろうな、ということが目に浮かんだので、敢えてやってみよう、という事になりました。想像通り結果は散々だったみたいです!(笑)
今の活動場所である佐倉のフィールドでは、自分の好きなことやっている感じです。あまりにもフィールドに何もなさすぎて、ここに何を作ろうかな、とワクワクしてしまって。スタッフですけど、周りも見ずに夢中になって色々なものを作りました。それに興味を持った大人や子どもがいたら一緒にやるという感じで参加者さん達と関わっています。
昨年、参加者さん達とスタッフがそれぞれ持ち寄ったり手作りした楽器で音楽を演奏するという〝原っぱフェス〟を開催した時は、ロゴ入りの軍手を作りました。当日の3日前に突然電車の中で閃いてしまったので「これはやるしかない!」と思って夜なべして作りました。今年もフェスをやろうという話が出ていますが、具体的なことが何一つ決まっていないのにノリだけは盛り上がっているじゃないですか。そういう大人達って最高ですよね。
去年の活動の中でも「絶対に無理だろう、、、」と思っていた、印象に残っているイベントがあります。印旛沼に手作りのいかだを浮かべる、という企画をやったんですね。初めに案を聞いた時には「浮くの?本当に?イカダを沼までどうやって持っていくの?」と謎だらけのスタートでして。全部がハテナな状態で当日を迎えました。リーダー祥子さんの車に竹を乗せて運ぶということになりましたが、農道だから良かったものの、普通の道路だったら絶対違法ですよね(苦笑) それを言い出した祥子さんは、沼に着いたらカヤックに乗り込み、自分は作らないんですよ(笑) なので仕方ないなぁ、と僕らが作りました。結果は、子どもが乗ったら浮いたけれど大人が乗ったら即沈没です。でも、その展開は本当に面白くて、参加者さんたちもとても楽しんでくれました。その頃は、原っぱフェスにいかだ作り、ナイトハイクなど、「計画的じゃなくてもやれること、楽しめることはあるんだ」ということの連続でした。
このようなイベント企画は結構好きですね。僕の役割はだいたい、「リーダー祥子さんの無茶ぶりを受けて、具体的に形にする。」ということです。その無茶ぶりが僕は嫌いではなくて。「自分には分からないからやってくれる?」と頼まれて、形にする。そうすると、そのわからない世界を純粋に楽しんでくれることが嬉しいです。原っぱ千葉のインスタグラム配信も頼まれてやるようになりましたが、無茶ぶりするだけでなく、その後のフォローをきちんとしてくれることが素直に嬉しいです。リーダーが祥子さんで僕は良かったと思っています。
「ちょっと変なこと」「ワクワクすること」を仕掛けたい
原っぱ大学の参加者さん達に対して、今日はこれをやって、この時間にこれをやろう、とこちらが決めることはしたくないなと思います。参加する人自身に、何をしたいか考えてもらうような〝場〟の中で、僕は、皆さんがワクワクするきっかけや、今までその人が経験したことのないような「ちょっと変なこと」を提供したいです。突然〝ニヤットさん〟(アーティストである妻が手がけているキャラクター)を連れて行ったのも、そういうことなんです。誰も予期していなかったと思うんですよね、森の中に突然大きな着ぐるみ(?)が現われるなんて。
一番身近にいた「面白い大人」は父 そういう大人を増やしたい
一番近くで既に出会っていた「面白い大人」というのは僕の父なんですよ。あまりに身近で気が付きませんでしたし、改めて感謝の言葉を伝えたことはないですけど、今はそう思えます。父が大学生の頃から40年間今も尚続けていることが、山形県でのニホンカモシカの個体調査なんですね。仲間と無線で交信をしながら山を登り個体を探します。プロミナー(スポッティングスコープ)で特徴を確認し、山小屋に戻って調査ノートを作る。それを、毎年全国から集まってくる仲間達とやっていて、子どもの頃から大学生の頃まで僕も一緒に行っていました。そこにいた大人たちも面白かったですね!
「暮らしを楽しくしたい」という想いが僕の根本にあります。
「大人になったら仕事をするだけ」ということを大学生の頃に漠然と思っていたわけですが、それは耐え切れないと思っていました。その頃に、何かで読んだ誰かの言葉に、「大人の子どもごころをくすぐる」という言葉があったのですが、この言葉がとても良いな、と思いましたし、こういうことをずっとやっていたいです。
小中学校の頃の同級生達と今でもずっと仲が良くて、彼らと会う度に話すのが「ここでいつか何か面白いことをやりたい。」ということです。ガクチョーが逗子で同級生、優さんと原っぱ大学をやっているように。
僕も友達もみな仕事があるのでたくさんのことが出来ているわけではありませんが、今はずっとその実験的なことをやっているように感じています。この日々を続けていれば、いつか誰かと何か面白いことが出来るかもしれない。
原っぱ大学に行くと、「自分達も何か面白いことをやりたい」と思っている大人が多く来ていますよね。僕がダイレクトに面白いことをやると、ダイレクトに受け取ってくれる。色々と地域の活動をしているので、ものすごくコミット出来ている訳ではありませんが、まずは僕自身が楽しくやれたらいいなという気持ちが大きくて原っぱ大学と関わっています。
教育云々という話は僕にはよく分かりませんし、義務感でやっているわけではないので、増えなくてもそれはそれで良いのですが、石巻にいた大人達や原っぱ大学に入る時に会っていた大人達、そして僕の父。彼らのような人達がもっと増えたらいいなと思います。