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4.「遊び」と「play」について

先日、ふとした会話のときに日本語の「遊び」と英語の「play」の違いについて話題になりました。「play」という言葉を日本語に訳すと「遊ぶ」。でも、よくよく言葉を観察するとその言葉の差す行為にどうも差異があるらしい。

play soccer(サッカーをする)、play guitar(ギターを演奏する)、play a comedy(喜劇を演じる)…。「play」という言葉には日本語の「遊ぶ」にはない行為も含まれているみたい。ただ、面白いのはスポーツでも音楽でも演じることでも、集中してのめり込んで、入り込んでいくとある種、「フロー状態」になれる行為、ということで共通しているらしい。夢中になって周りが見えなくなって、思いっきり集中することが「遊び」だとすれば、どれも「遊び」の一種なのかしら。

一方で日本語の「遊び」。英語の「play」が喚起する行為よりもよりふわっとした、あいまいな概念な気がします。ある行為そのものをさすよりは、行為と行為の間のぼんやりとした無目的な状態。「遊び」という言葉自体が「すき間」とか「余白」とか「ゆとり」といった意味(ハンドルの遊び、遊んでいる土地など)をもっているからこそのイメージかもしれません。でも、これらは僕のイメージだから違った感覚の人もいるかもしれないけれども。

「すき間」、「余白」。僕ら日本人が古来から美意識として大切にしてきたことだと思う(たぶん)。ここ数年来ご縁があって坐禅をかじっているのですが坐るときの心のあり様がまさにこの「遊び」の状態と近いと思います。ただその場にある。目的やその先の成果を意識するのでなくて、ただただその瞬間を坐って、息を吸って吐く。最近はマインドフルネスなんて言われておりますが、思いっきりひたすら遊ぶことが「マインドフルネス」そのものなのかもしれません。

何を書きたいのかわからなくなってきたけど。「遊び」も「play」もアプローチや捉える概念の範囲は違うけど、とても大切で尊いことなのだ、と感じました。(このテーマ、すごく大切だと思うのだけど僕の知識と語彙が足りずどうも尻切れトンボで消化不良。またの機会に改めて考えたいです)

2017年1月25日 @自宅にて