やっちまったからのはじまり、ホームを感じること
おはようございます。久しぶりに思うことを書きます。
とある場の問いで「壁にぶつかったときに乗り越える方法は?」というものをいただきました。考えてしまった。うーむ。「壁」のイメージも「乗り越える」のイメージもあまりなくて。とはいって失敗やらエラーやらやっちまったという瞬間はたくさんある。
たくさんあるどころかそんなのばっかり。とくに、昨年8月に所属していた会社を辞めて(もう1年経ってしまう!)からは想像した結果、期待した結果と実際の結果にズレがあることは日常。ほぼいつも。そしてつい最近も。
ただ、「壁」を「乗り越えている」感覚はない。
思い浮かんだのは遠い山の頂を目指して、麓の森だとか藪だとかを邁進している感じ。しかも辺りは霧が立ち込めてる。前に進んでいるはずが全然異なる方向に向いていたり。この道はやばいぞー、と思って進んでいたらやっぱりやばかったり。いい感じで前進していると思っていたのに、突然目の前に崖が現れたり。おっとっと、やっちまった!
そんなときは乗り越えるのでなく、深呼吸。大きく息を吸って、大きく吐いてさてどうしようと考える。まずはその場、その局面を受け入れる。よく見る。耳を澄ます。
そうすると、大回りだけど迂回する方法があったり、助けてくれる通りすがりの人がいたり、仕方ないから後戻りしたり、数日そこでキャンプすることになったり。でも、何というかなんとかなる。そして、そんな難所を経験するとひとつ、知恵がついた気がする。そんなことの繰り返しであります。
抽象的ですね。でもまあ、そういうことだなあ、と改めて思う。大事なのは深呼吸して、その場を受け入れて、よく見て、耳を澄ますこと。(これ、自分に言い聞かせております)
そうやってトライ&エラー&エラー&エラーを繰り返していたら、ホームを感じる場が増えていた。自分のやっちまったを笑って話せる仲間がちょっとずつ増えていて、ありがたいことに、ああ、この仲間と笑っていればとりあえず大丈夫、と思える人たちがそこにもそこにも。
そんなこんなで、「壁」は「乗り越え」ないけれども、道に迷ったり、間違えたり、やっちまったに後から気づいたりしながら、頂きに向けて歩いて行こうと思います。
まあ実は、自分が目指す頂きがどこにあるのか分からなくなることもしょっちゅうなんですけどね。
※写真は先日連れて行ってもらった春の雪山。山登りのプロの友人はまさしく、その場その場で判断を積み重ねて頂きを目指しておりました(僕はついていくだけ、それもやっとだったけど)。